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タイトル : 森の熊さん

  • 執筆者の写真: たみあ めそぽ
    たみあ めそぽ
  • 2015年9月7日
  • 読了時間: 2分

どんな理論も正論も暴力の前には無力。 どんな理論も正論も感情論で話す人の前では意味をなさない。 どんな理論も正論も獣の前では意味をなさない。 自分の常識はみんなの常識ではない。 多数決は少数派の意見を見殺しにする。 みんなが賛成することが必ずしも最良の選択肢とは限らない。 獣に『信号を守れ』と言っても守れるハズもない。 勝手に正義を装い、勝手に自分に都合のいいルールを決めて『守れない相手が悪い』では自分が責任という呪縛から解放されたいという意志表示をしただけの茶番劇にしか見えない。 ―以下本文― 昔は山と人が住む境目の辺りにお腹の空いた熊が必要以上、人里に入って来なくてもいいよう熊用の柿やら何やらを植えていたらしい。 最終防衛ラインということだ。 人間は熊を怖がるけど熊は人間以上に人か怖い。 人の気配がするとこなんて行きたくも近寄りたくもない。 だけどもお腹が空けば背に腹は変えられないので仕方なしに怖い怖い人間のいる里まで降りてくる。 そんな熊を想い、自分達のことを想い、お互いが無益な争いをしなくてもいいように熊よりも少しだけ知恵のある人間はそれを考え実行してた。 今ってなんか、自分の土地で自分が作った作物は全部努力して作った自分のもの!な感じ。 人の作った勝手なルール。 勝手な権限。 それを守れなかった熊は悪い子かな? (鳥とか虫とかもね…) 生活苦から犯罪に手を染める人、苦しさから解放される為に酒に溺れる人、麻薬に手を染める人、パチンコに依存する人。愛されたくて浮気する人。 イケないことなんてのは誰にでも分かる。でもその人達だけを責めることは熊だけを責めているのと同じこと。 射殺して『つかの間の平和が訪れました、めでたす、めでたす』でお仕舞いにしたって根本的に何かが解決するわけもない。 自分のことで精一杯な人間が集まると負のスパイラルは加速する。 それはまるで地獄絵図。 ほんの少しの余裕と相手を想いやる気持ちが如何に自分に有益になるか全ての人がいい加減学習するべきだと思う。 でもね、僕は知ってる。 それすら熊を責めてるのと同じことなんだって…。

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